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概要と年表

概要

 

 関東大震災朝鮮人虐殺から今年で100年目を迎える。侵略や植民地支配の清算はおろか、戦前と地続きにある戦後日本の政治状況下で、在日朝鮮人に対するヘイトスピーチ、ひいてはヘイトクライムは深刻なレベルである。
 琴秉洞、姜徳相、山田昭次など在日朝鮮人と日本人の歴史家たちが紐解いてきた関東大震災時の朝鮮人虐殺の実態と責任は、朝鮮侵略を背景に「日本の植民地支配と朝鮮人民の抵抗運動(3.1人民蜂起)に対する官憲の恐怖があり、ジェノサイド、大人災の直接的かつ最大の原因は戒厳令を実施した」(李一満「『関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑』撤去の動きについて」2017年5月、朝鮮新報に掲載)国家と、それに加担した民衆にあることが、多くの歴史研究によって補完され、明々白々の史実として認識されてきた。

府主体の虐殺


 1923年9月1日に発生したマグニチュード7.9の大地震は東京、埼玉、神奈川など関東一円を襲った。同日から巷では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火している」などの流言蜚語がまわりはじめる。まもなくして東京墨田区旧四ツ木橋など各地で朝鮮人虐殺が起こった。
翌2日の18時頃、内務省は「厳重取締命令」を発布、3日には「朝鮮人暴動」を事実として伝え、「不逞鮮人」を取り締まるよう各地の警察に電報した。街では「自警団」が組織され、かれらは事実上、政府の指示および容認のもと、竹やりや日本刀で朝鮮人とみなした者を次々と殺傷した。日本の政府、軍、警察及び民衆らが主体となり起こした「朝鮮人狩り」は、少なくとも6千600人以上の犠牲者を生んだとされている

殺は「今の話」

 これまで多くの朝鮮人や日本市民らの手で、各地に追悼碑が建立され、毎年9月1日を前後して追悼集会が行われてきた。また当時の虐殺に関する研究や普及活動も民間レベルでは着実に行われてきている。
 一方の国はどうか。虐殺から100年が経とうとする現在も、日本は真相究明の責務を怠ったままでいる。そればかりか虐殺主体をあやふやにし、国家責任を逃れようと目論んでいる。
 歴史家の故・琴秉洞氏は、「大虐殺の引き金となった戒厳令を政府治安担当の指導的人物(内務大臣、警保局長、警視総監)が起案・執行し、国家機関・権力機関、即ち軍隊、警察が虐殺を先導し、さらには朝鮮人暴動流言を内務省が伝播した」こと、「虐殺された朝鮮人の圧倒的多数が自警団員、青年団、またはその他の日本民衆によって殺された」ことを根拠に、朝鮮人虐殺の本質は、国家犯罪であり民族犯罪だと指摘する。
 長年、虐殺に関する証言収集を行ってきた一般社団法人ほうせんか理事の西崎雅夫さんは「政府が過去の虐殺を反省しない態度は、いまも犠牲者や遺族たちを『殺し続けている』のと変わりない」と述べ、朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側中央本部事務局次長の金哲秀さんも「今から20年前、日弁連は長年トラウマを抱えてきた虐殺目撃者文戊仙さんの訴えに動かされ、総理大臣に対し国の責任を認め、謝罪と真相究明を求める勧告を出した。しかし日本政府はいまだに被害者の告発を無視し何もしていない」と鋭く批判する。

年表

1875年8月 「雲掲」号事件
1876年2月 江華島条約締結
1894年 甲午農民戦争
1895年8月20日 王妃虐殺事件(乙未事変)
1905年11月 乙巳五条約
1907年 丁未七条約
1910年8月22日 「韓国併合」条約
1907年11月 洪範図義兵隊が宮部「討伐隊」掃滅
1909年10月16日 安重根が伊藤博文を殺害
1909年12月 李在明が李完用襲撃
1910年8月 武断統治開始
1911年8月 朝鮮教育令公布
1912年8月 土地調査令公布
1919年3月1日 ソウル、平壌をはじめ朝鮮各地で3.1人民蜂起
1919年8月 文化統治実施
1920年~ 産米増殖計画
1920年10月 間島虐殺事件
1922年2月 改正朝鮮教育令(新教育令)公布
1922年 夏 新潟・中津川朝鮮人虐殺事件
1923年9月1日 関東一円で地震、朝鮮人暴動に関する流言発生、朝鮮人虐殺が起きる
1923年9月2日 戒厳令公布

1923年9月3日 内務省、各地の朝鮮人暴動を事実とする電報
1923年12月5日 独立新聞が朝鮮人犠牲者数を報道
1923年12月15,16日 国会で朝鮮人虐殺の真相追及質問
1999年8月25日 虐殺目撃者である文戊仙さんが人権救済申し立て
2003年8月25日 文さんの申し立てを受け日弁連が国に対し勧告(国の責任を認め、謝罪と真相究明を求める)

朝連関連(携わった事業など)

1945年12月7日 朴烈歓迎会。内務大臣への要求の一つとして朝鮮人虐殺の真相発表と責任者処罰を掲げ内務省へデモ行進、警保局長と会見


1945年12月8日 朝鮮独立人民促成大会。神奈川県知事への要求の一つとして朝鮮人虐殺の真相発表と責任者処罰を掲げ神奈川県庁へデモ行進、県知事と交渉


1946年9月1日 大震災犠牲者追悼大会(朝連と革新勢力※の共催)、関東大震災被虐殺同胞犠牲者追悼会(新朝鮮建設同盟と朝鮮建国促進青年同盟の共催)、日本関東大震災被虐殺同胞犠牲者追悼会(朝連ソウル委員会と反日運動者擁護会の共催)


1947年3月5日 横浜で朝鮮同胞納骨堂博捗改装記念碑除幕式、追悼法要


1947年8月20日 『関東震災と白色テロルの真相』(朝鮮民主文化団体総連盟)発行


1947年9月1日 大震災虐殺犠牲者追悼大会(朝鮮解放運動救援会と日本労農救援会の共催)、各地で追悼集会、朝連ソウル特別委員会が談話発表


1948年7月 朝連十五中委が8月1日から9月1日までを「傀ライ政権粉砕人民中央政府樹立斗争月間」と定め、9.1行事開催


1948年8月31日 民主主義民族戦線が談話発表


1948年9月1日 関東震災第25週年虐殺記念追悼会(解救主催)、「虐殺犯を即時処断し日本政府に損害賠償させよう」をスローガンに掲げる。関東大震災記念犠牲者同胞追悼会(民団中央主催)


1948年9月6日 許南麒が詩「君たちよ、眠るがいい(もう目を閉じよ?)」発表(同日『解放新聞』)


1949年9月 解救、追悼行事を各地方及び各下部機関で行うよう指示。朝連強制解散
※革新勢力:「進歩的文化人」などといった諸勢力を指す

 

その他碑の建立関係
1924年6月22日 群馬県藤岡市に関東震災朝鮮人犠牲者慰霊之碑建立
1924年9月 埼玉県本庄市に鮮人之碑建立
1924年9月1日 千葉県船橋市に法界無縁塔建立
1932年9月30日 埼玉県本庄市に鮮覺悟道信士建立
1938年7月 埼玉県熊谷市に供養塔建立
1947年3月1日 千葉県船橋市に関東大震災犠牲同胞慰霊碑建立
1952年4月20日 埼玉県児玉郡上里町に関東震災朝鮮人犠牲者慰霊碑建立
1958年4月8日 千葉県木更津市に朝鮮人遺骨堂建立
1959年 埼玉県本庄市に関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑建立
1961年1月21日 神奈川横浜市に神奈川朝鮮人納骨堂建立
1970年9月1日 神奈川県横浜市に関東大震災韓国人慰霊碑建立
1972年5月 千葉県八千代市に無縁仏之墓建立
1973年9月29日 東京都墨田区に関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立
1974年9月1日 神奈川県横浜市に関東大震災殉難朝鮮人慰霊之碑建立
1983年3月 千葉県八千代市に至心供養塔建立
1990年9月7日 千葉県八千代市に關東大震災韓國人犠牲者慰霊詩塔建立(高津山観音寺境内)
1993年9月1日 埼玉県児玉郡上里町に関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊塔建立
1995年2月 千葉県八千代市に無縁供養塔建立
1999年9月1日 千葉県八千代市に慰霊の鐘、普化鐘楼建立(高津山観音寺境内)
1999年9月5日 千葉県八千代市に関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑建立(高津山観音寺境内)
2001年12月 埼玉県さいたま市に朝鮮人姜大興墓建立
2009年9月 東京都墨田区に関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑建立
建立年不明 埼玉県大里郡寄居町に感天愁雨信士建立

※参考文献
栄桓「解放直後の在日朝鮮人運動と『関東大虐殺』問題―震災追悼行事の検討を中心に」(関東大震災90周年記念行事実行委員会編『関東大震災 記憶の継承―歴史・地域・運動から現在を問う』日本経済評論社、2014
鄭永寿「『関東大虐殺事件』と植民地支配責任追及―解放直後在日朝鮮人運動の実践」(『学報』朝鮮大学校、29号、
2019)
資料集『朝鮮人犠牲者追悼碑 歴史の真実を深く記憶に』(朝鮮人強制連行真相調査団、2018)

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